価値観を。

価値観は移動距離に比例するのかもしれない。

写真は私が19歳の時の写真だ。
この車は19歳の時に290万円で買った車。

18歳で田舎を飛び出して、北半球では最大の都市である札幌に住み、私の全ての価値観は「車」だった。
イイ車に乗ることがステータスであり、人から評価される衣であった。

しかし、30歳の時に関東へ越して価値観にズレが生じてきた。車という価値は、実は価値ではなくイメージだという事に気がついた。巷ではこれを大人になった。と表現するのかもしれないが、私の価値観は変わった。

しかし、古い同期は未だに車という価値観から抜け出せないでもがいている。車という価値観はテレビが作り上げた幻想に過ぎず、タイヤが4本付いてエンジンを積んだ、移動手段であり、そこに最低限の価値以外は皆無なのだ。

それは、若い頃に弟の立ち上げた自動車板金塗装整備工場を手伝っていた事も助けになるのかもしれない。

そして私は「住宅」という価値観までも変わってしまった。それも若い頃に大工として親方の元で修行していたのも助けになるのかもしれない。

住宅というものは、雨風しのげればそれでよし。気に入らないならノコギリとトンカチとペンキで作り変えてしまえばよいのだ。そこにウンゼン万円という投資をする意味は無い。(2019/07/29現在では。)

自分が住むという意味での住宅や自分が乗る自動車に価値はないんだ。

「何故なら買った瞬間から極端に値落ちし、一銭も産まないからである。」

私にとっての現段階の価値観は、「買った時より多少の上下はあるものの、時間の経過と共に価値が同等かそれ以上になるもの」か、世の中のためになるもの、そして家族と経験の4つしかない。

家族を作ることは社会に貢献する事になる。旅や色々な経験は自分への投資になる(邪魔にならない)

世の中には、中身が同じなのに飾りを施して価値をつけて売っている事がほとんどだ。その本質を見抜く目を養うには、今住む街から遠い街へ越して、そこで仲間を作り、違う価値観を受け入れる事にあるのかもしれない。

今の若い子たちを見ていると私は楽しい。それは価値観が全く異なるからだ。その価値観を私は盗む。
そして、明日の価値観にするわけだ。


そんな話を昨日、カウンター越しに話したような記憶がある。